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2015年12月03日

  仏教の善と悪―慈雲尊者の「十善法語」―

仏教の善と悪―慈雲尊者の「十善法語」―

 

                  東洋大学名誉]戸時代後期の真言宗の僧侶。京都・奈良で顕・密・禅・律・儒など広く修学。戒律を重視し「正法律」(真言律)を提唱した。雲伝神道の開祖。能書家としても知られる:1718-1804)の『十善法語』あるいは『人となる道』というような残された言葉を参考にしながらいろいろ考えてまいりたいと思います。スタジオには東洋大学名誉教授の金岡秀友さんをお迎えしております。この問題についていろいろお話を伺いたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。今日は仏教の善と悪ということなんですが、参考にする慈雲尊者という方と、それから残された『十善法語』とか『人となる道』というものが、どういうふうにしてできたのか。その辺のところを初めに簡単にお話を頂きたいと思うんですが。
 

金岡:  どういう人物にも時代の背景と、それから活躍された場所という、時間と空間の問題があると思いますので、それを簡単に申しますと、この方の活躍されましたのは、江戸も中期を過ぎました一七一八年から一八○四年。ですから殆ど十八世紀を全部生きたという方で、将軍でいうと、九代(徳川家重)、十代(徳川家治)と、それから十一代(徳川家斉)までかかりますかね、という方です。時間がそうだとしまして、空間的には大阪の方なんですね。普通でいくと、大阪というのは俗に商業の都―商都と言われるような感じで、あまり学問とか宗教という連想は少ないんですが、なかなか高僧も出ておられますし、明治以後になりましても、モンゴル学などでは石濱純太郎(いしはまじゅんたろう)という大阪大学の先生が草分けになっておられますし、小説家では司馬遼太郎(しばりょうたろう)(小説家、ノンフィクション作家、評論家:1923-1996)先生初めなかなか大阪の文化というのがあるわけですが、今日の慈雲尊者はほとんど大阪近辺で活躍されて生涯を終えられた、その意味でも珍しい関西の学僧ということでございます。

 

金光:  それで仏教に関してどういう?

 

金岡:  仏教に関しては、仏教ではよく「宗乗(しゅうじょう)」「余乗(よじょう)」と申しますね。「宗乗」というのは、宗派の乗り物、宗派の学問ということで、これがきっちりしていない場合には、我々の言葉でいう、その人の立脚地が不明確だ、ということになるんですが、この人の宗乗は真言でございます。その点では真言宗では非常に尊重されるお方ですね。それからもう一つ大切なのは「余乗」―これは専門外というか、周辺の学問と言いますか、これは非常に広い人で、一々言い切れませんけども、一番大事なものがあって、一つは京都で得た人間の仏教徒しての行動のあり方―これ「戒律」と申しますが、これが一つ。で、もう一つは、我々は全部中国・韓国から仏教の経典を学んで、なかなか本(もと)の―当時の言葉でいう天竺(てんじく)(インド)の文字から仏教を学んでいない。ここに遡らなければダメだという、いわば文献学的な着眼点から梵学(ぼんんがく)(サンスクリット=インド古代の言語)を開拓したというのが第二点でございましょうね。それから第三点もいろいろございますけれども、その人は仏教だけではダメだという、もっと広い立場があって、東洋の学問をする場合には、仏教と並んで中国の儒教、さらには日本でいえば国学というものなどまで目を向けて、特に大阪におられましたから、京都の漢学者とは交流があって、伊藤東涯(いとうとうがい)(1670-1736)先生なんかのお弟子になって、漢学も実に一角(ひとかど)ですね。こういう一面においては、漢学、梵学、国学をものにした、いわゆる多国籍言語―ポリグロット(polyglot:多言語に通じている人。多言語使用者)という一面をもっていますし、それから第二番目は、そういう学者が陥りがちな学問至上主義でなく、絶対に仏教徒らしい仏教徒になるには戒律を守ること―今日のお話になりますが、それをしかもあまり難しいことを言ってもダメだと。誰でもやれるようなと言うんで、「十の善いこと」ということを取り上げて「十善戒」、これで押し通した、という点でも非常に大功績のあった人で、「今弘法」と言いますか、弘法大師の再来というように崇められた人でございます。

 

金光:  その方がそれじゃ善と悪について、どういうふうにおっしゃっているのか、先ずその辺からお話を伺いたいと思います。

 

金岡:  まず大事なことは、善の一々に入る前に、善と悪の定義と言いますか、どういうことだというのがやっぱり大事でございましょうけれども、「善という言葉で仏教の行動を全部覆うことができると考え、悪は、いわばその善なる状態が出ない状態を言うんだ」というお考えですね。

 

金光:  じゃ、法語の中にも、そういう言葉が出ているわけでございますね。

 

金岡:  そういうわけですね。

 

金光: 

此の十善ニ反スルヲ十悪ト云ウ。

・・・理ニ順ジテ心ヲ起スヲ善ト云ウ。

乖背(かいはい)スルヲ悪ト名ヅク。

 

十善は、この後で細かく説明して頂くとしまして、その後の「理に準じて心を起こすを善と云う」。「乖背(かいはい)」というのは、理に背く、ということでしょうから、乖背(かいはい)するを悪という。趣旨としては同じなんでしょうが、この「理」というのはどういうことなんでしょうか。

 

金岡:  これは天地の道理ですね。今日の物理とか生理とか、学問にもこの「理」の字は、ほとんど江戸時代と変わらない意味合いにおいて生きていると思いますけれども、江戸時代までは、この「理」はもう少し広い意味をもっておりまして、いわば物理とか生理とか、それからさらに道徳なんかのことを「道理」と言いますけど、そういう倫理も学問もすべてもののもとづく、一貫したもののことを日本人は―中国・韓国もそうでしょうけども―「理」と呼んできた。この「理」が、慈雲尊者の学問、道徳、宗教の根本にある。宇宙にはこの道理が動いている。この「道理に順じて」というのは、背かないで、ということですね。この道理に背かないで、この「順」というのは、おそらく梵語では、「随(したが)う」という字がありますね。「随時」なんて、「随時お進みください」とか、その「随」の字に当たるんで、決して「背かないでそのまんまに」というのが、「理に順じて」というので、慈雲尊者の教えを考える時、この「順」とか、「随」は非常に大事である。何か自分が新しいことをするんじゃなくて、世の中にある道理のままに、道理のままに随って、ということで、それで心を起こす。だから春が来たらば、春は暖かいな。それを無理矢理に、春があまりいつまでも薄ら寒いから早く花を咲かせようとしてですね、慈雲尊者の時代の後にありますが、水野という老中が、家斉将軍を自分の家にお呼びする時に、梅がまだ寒くて咲かないからと言って、庭中を温めて梅を咲かしたという話がありますね。そうすると、家斉将軍というのは、女性関係が非常に有名だった将軍ですけども、やっぱり将軍として一番長い時代を治めていただけの人ですから、やっぱりその歓迎ぶりには苦い顔をしていた。そういうことをしないのが、理に順ずるでございましょうね。

 

金光:  よく仏教で「無我」と言いますね。我がはからいを捨てろ、というのは、いわばこの理に順ずるということになるわけでございますね。

 

金岡:  そう思いますね。ですから自分をなくすためのいろいろの手立てをして、無理なことをするのは、やっぱり理に順じていないわけです。

 

金光:  それもはからいになるわけですね。

 

金岡:  はからいになる。そっちの方が語の解釈としては一般的ですね。

 

金光:  それじゃ後具体的に、十善というものがどういうものか。その辺の具体的な紹介を頂きながらご説明頂きたいと思いますが、この「十善」というのは、ここに表があるわけでございますが、一番最初が、


不殺生(ふせっしょう)(ころさず・・・故意に生き物を殺さない)

不偸盗(ふちゅうとう)(ぬすまず・・・与えられていないものを自分のものとしない)

不邪淫(ふじゃいん)(おかさず・・・不倫をしない)

不妄語(ふもうご)(いつわらず・・・嘘をつかない)

不綺語(ふきご)(かざらず・・・中身の無い言葉を話さない)

不悪口(ふあっく)(そしらず・・・乱暴な言葉を使わない)

不両舌(ふりょうぜつ)(たばからず・・・他人を仲違いさせるようなことを言わない)

不貧欲(ふとんよく)(むさぼらず・・・異常な欲を持たない)

不瞋恚(ふしんに)(そねまず・・・異常な怒りを持たない)

不邪見(ふじゃけん)(あやまたず・・・(善悪業報、輪廻等を否定する)誤った見解を持たない)

 

不殺生というのからご説明頂きますと、

 

金岡:  今申し上げた説明に続ける形で申しますと、これは仏教のみならず、宗教でも、あるいは自然科学でも同じでしょうけれども、我々は生を受けるというか、与えられるというか、この世に出てくるわけでございますね。そうすると、普通我々は「死ぬ」という言葉を使いますが、仏教では「死ぬ」よりも古い言い方では、「命が終わる」と書いて、「命終(みょうじゅう)」と言いますね。あるいは「終わりに臨む」と書いて「臨終(りんじゅう)」とも言いますけれども、それまではごく自然に命を繋いでいくことが、我々全部の生き物。ですから「殺生」という字のどこにも人間という言葉は出てこないで、生き物を殺さないと書いてありますね。この生き物を殺さないという以上は、当然虫も獣も殺さないというところまで入るわけで、与えられた生命は命終(みょうじゅう)に至るまでお互いに大事にしようというのが、不殺生の精神ではないか。

 

金光:  根本精神はそういうことですね。

 

金岡:  そうですね。

 

金光:  言葉として述べていらっしゃるので、その「不殺生」の「殺(せつ)」ということについてのご説明があるわけですが、これは先生に選んで頂いた言葉ですけれども、

 

殺(せつ)ト云ウハ、方便(ほうべん)造作(ぞうさ)シテ

他ノ命ヲ奪フコトゾ。

 

金岡:  これも非常に上手というか、はっきりしたご説明だと思いますが、そのところにあるんで大事なことを二つばかりありますが、「方便造作」というのは、これは今日の法律の方で殺すことを問題にした場合にも同じだと思います。いわゆる故意に人を殺すというやつで、いわゆる故意ではなかったと。止む得ず弾みで殺した、というのは、罪も軽くなるようでございますけども、「方便」というのは、これは手立てですね。仏教では古い言葉ですけれども、もともとの意味は「近づく」という意味ですから、なんとかして自分の目的を達成しようとすることが方便。「造作」というのは、そのための手立てを作る。いろいろに作りなすことですね。これも他人の命を奪うとは書いていない。「他の命を奪う」とこう書いてあるわけですから、他者の命を奪うということで、極端に言えば動物のみならず動植物の命を奪う、ということになる。他の動植物の命を奪うために、何かの手立てをしたものは、すべての人であろうと何であろうと殺すということになるぞ、というのが、これが慈雲尊者のいろいろな仏典からの最大公約数の答えということだろうと思います。

 

金光:  大きく纏められて、言葉にするとこういうことになる。現実には人間は他の命を頂いてでないと生きられない。殺生にもいろいろあるわけですが、

 

金岡:  実際の条件が出てくるわけです。

 

金光:  その区分けとしては、また言葉が残されているようですが、

 

活命(かつみょう)ノ殺生

無益(むやく)ノ殺生

〈一殺多生〉

 

「命を活かすための殺生」というのもあれば、あるいは何の役にも立たないのに殺す「無益の殺生」というのもあるわけですね。この辺のところはどういうふうに?

 

金岡:  このお考えが述べられていないと、私たちが今おっしゃった通り、何を食べたらいいかと言って、その第一歩で躓いてしまうわけですね。しかしこの「活命」というのは、今おっしゃって頂いたように、「命を活かす」。命というのは万物の命で―人間中心というキリスト教と、仏教とはその点では違いますから―人間のために他のものは作られた、という考え方はございません。人間は重視していますけれども、他もものも軽視できないということですから、これは人間が生きるためなら人間の活命になるし、亀なり魚なりが生きるんだったら、亀・魚の活命ということになるわけですね。そういうものたちが生きていくためには、必ず動物性蛋白、また植物も同じだとすれば植物性蛋白も摂るわけですね。これが第一の「活命の殺生」です。例えばピノキオの話にあるように、クジラが生きようと思えば、それこそ鰯なんかパッと飲み込んでしまう。ああいうのも活命の殺生ということになるでしょう。それからもう一つ出てきたこの「無益の殺生」というのは、そういう必然性が何にもない。楽しみのための殺生ということで、殺される方にも、殺す方にも何の益もないので無益の殺生。こっちの方の言葉の方が一般化しましたね。この二つの言葉の両方とも、大乗仏教の、いわば仏教概論というべきご承知の『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』ですね。あの菩薩のいろいろなやり方を説いたところに出てくる言葉ですが、活命の殺生は仕方がない。しかし無益の殺生というのは断固として避けなければいけない。ですから一番問題になるのは、道楽のための殺生。「殺生道楽」という言葉がありますけれども、お魚を捕って楽しむのは、そういう意味では決して誉めたことではない。況(ま)してや外国なんかの貴族たちがやる狐狩りであるとか、鴨猟であるとか、ああいうものは狐や鴨を獲らなければ生活のできない猟師さんなら別ですけども、貴族たちがお慰めにやるというのはよろしくないことなんですね。それもほんとに善くないと書いてあります。

 

金光:  ただ現実には戦争なんかありましたり、人間というのはいろんな人がいて、それこそ理に反する行動を起こして戦争を起こしたりするわけですが、そういう何があっても殺しちゃうということではないわけですか。

 

金岡:  まず殺生は、あらゆる「五戒」(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒)、「十善戒」の筆頭ですから、殺生というのは、まず無条件とお考えになっていいわけですけれども、しかし哲学的にずっと追いつめていくと、おっしゃるように我々自身が、何か他のものを食っているわけですね。動物を食っているわけですから、その動物を食うという殺生は、これはやっぱり認めなかったら、結局自殺するほかないわけですね。

 

金光:  ただ先ほどの「無益の殺生」の後にですね、「一殺多殺(いっせつたしょう)」という、これ時々使われる言葉ですね。「一殺多殺」というのは、これはどういう?

 

金岡:  これを「活命の殺生」の一つの応用問題というか、これも同じ『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』に例が出ているわけですが、一人菩薩が歩いて来た時に、向こうで悪人が子どもに手をかけて、その子どもを川に突き落とそうとしていたと。その突き落とそうとしているところを見た菩薩はどうするか、という一つの設問ですね、問いを設けているんですけれども、その問いを設けた後で、やっぱり常識と一致するかどうかわかりませんけれども、その菩薩はその人殺しを突き落として子どもを救え、いうことです。子どもは助かります。ですけれども、殺人を犯そうとしていた悪人は死ぬわけですね。そこのところから今の無益の殺生の考え方が進むわけなんですけれども、これは悪人を殺したんだからいいよ、ということになったら、これは宗教以前、あるいは宗教以外の世界では、どういうふうに理解するか知りませんけれども、仏教の理解でいけば、これはやはり殺人は絶対に間違いないですから、彼は子どもを救うためであっても人を殺した場合には、やっぱり殺人―殺生ですから堕地獄(だじごく)なんです。地獄に堕ちると。間違いなく地獄に堕ちるんです。堕ちた瞬間に、自分は殺生したんだから、これは自分の命である。当たり前だ。「堕地獄必定(だじごくひつじょう)」という言葉の通りに、自分が地獄に堕ちるわけですね。そうすると「地獄に堕ちた」と言った時には、地獄に堕ちたと相応しく自分の罪業というものを反省する。これがいわゆる懺悔(さんげ)でございますね。そうすると、その後の説明が面白いんで、懺悔をしたならば、「懺悔滅罪(さんげめつざい)」というのも仏教の思想、特に空の思想であって、罪はいつまでも残るものじゃないわけですから、懺悔をした途端に、雪が太陽に会ったように、スッと殺生の罪は消えますから、その悪人を殺して子どもを助けた菩薩は、また地獄から救われることができると。これが「一殺多殺」なんですね。ですから一も多も、人数とか数ではなくて、一人を殺すことによって、よりまた別な生き方を、新しい生き方をすることができる。それはただし、俺は殺したぞ、殺生だぞ、懺悔すれば救われるんだぞ。「懺悔した、はい、救われた」という方程式じゃないわけなんですね。これを機械的にやれば、それをなんか札でも持っていて、片っ端から悪人をぶっ殺して歩けというのが出てくるに違いない。それではいけない。だから自分は地獄に堕ちるという覚悟をしたうえでの殺生だったならば、これはまた浮かぶ瀬もあるという考え方が出ているわけですね。ただこれを戦争というような規模に当て嵌めますと、そういう懺悔をする暇があるかということが先ず第一だし、その国の国民が国と国とか相反したからと言って、今のような子どもを殺すような極悪人の集団が、軍隊とは考えられないわけですから、そこのところで軍隊同士の殺し合いというのは、今の一殺多殺とは違うと思いますね。

 

金光:  そうですね。やっぱり戦争という場合は、両方とも「自分たちが正しい」ということを言い始めるということは、やっぱり「天の理に反するのが両方ともある」という面があると思いますが、殺生の問題は、基本的には今お伺いしたようなことになりましても、実際面としては、人間としてはいろいろと考えなければいけない点が随分あるようでございますね。それでは「不殺生」はその程度にしまして、その次には、「不偸盗」というのがあるわけですね。これは盗まないということですけれども、これは不偸盗というのは、本の言葉では、原語ではどういうことでございますか。

 

金岡:  「不与取(ふよしゅ)」という言葉が原語のようでございます。「不与取(ふよしゅ)」というのは与えられざるに取る、という。頂いたんでないものを自分のものにしてしまうのは、すべてこれは「不与取(ふよしゅ)」であり、もっと中国の難しい字を使えば「偸盗(ちゅうとう)」ということになるわけでございます。

 

金光:  「あげる」と言ったものは貰ってもいいけれども、そうでないものを取るのは全部「不与取(ふよしゅ)」であると、非常に厳しいですね。

 

金岡:  ですから、私がよくあげる例ですけども、金銀財宝の類を取る人はなかなかいないでしょうでしょうけれども、ちょっとした趣味なんかで、箸置きなんかを集めるという人がいらっしゃって、「箸置きたくさん集まりましたね。大変だったでしょう。どのくらいかかるんですか」なんて聞きますと、持っている人が、「いやぁ、ところどころで頂くから」なんて、どうも断って頂いたんじゃなくて、ちょこっと持ってきたような、それも厳密に言えば「不与取(ふよしゅ)」ですからね。偸盗ということになるわけですね。

 

金光:  その辺のところは、姿・形に現れた目に見える行動と、それから心の中でどう思うかという、その辺のところがこの戒の場合には、問題になってくるわけでございますね。

 

金岡:  そうですね。それは一番大事なことで、今日の戒も、戒の形としてはたった十しか、十善戒しか言いませんけども、形で言えば二百五十とか、無数に出てくるわけですね。一番大事なことは、今の偸盗の一つにしても、見えないものでも自分のものにしていいという心がどっかにあれば、心の中では常に偸盗を犯しているということになりますでしょう。そういう点がなかなか普通の世間の法律よりも、いわば精神界と言いますかね、心の罪が非常に重く見られているようでございますね。

 

金光:  不偸盗の場合はそういうことで、もう一つ「不邪淫」というのがありますが、この「不邪淫」というのも基本的には、先ほどの理に反すると言いますか、理に反しないようにしないと不邪淫になると、男女の関係が。

 

金岡:  理というのは、さっきちょっと申し上げ掛けましたけれども、「理」は、今の世界でも、ものの道理というので常に使っておりますね。ですけど、江戸時代の人はそれよりも「分」という言葉の方が馴染みがよかったようで、分けるという。自分に身についた、自分の勢力範囲というか、手にあるもののことを「分」と言いますね。もっと誤解を受ける言葉で、慈雲尊者なんかもよくお使いになったのは、「分際(ぶんざい)」という言葉で、

 

金光:  現在は、「あまり分際をわきまえない」というような、ネガティブの意味に使います。押さえつける感じで言われますと、慈雲尊者のおっしゃったニュアンスとは大分変わってくるわけですね。

 

金岡:  これはわずか二百年ばかりの違いですけど、一番大きく変化したボキャブラリー(語彙(ごい))の一つだろうと思いますが、「分際」というのは、これなんかも境目をはっきりして、その境目を越えないということで、当然以上に当然ですね。頂いていないのに頂いて帰るとかですね、この「不邪淫」で言えば、人様の女性に手を出すとか、ということをいうわけですからね。だからこれも三つとも全部同じ基礎に立っていると。それから「偸盗」というのは、自分のものでないものを自分のものにする。「不与取」ですから、これも分を越えて、自分が貪るわけですね。「不邪淫」も同じで、自分のものでない女性に対して邪な行為をするということになるということで、これ三つは、全部身体でやる不与取ですから、「身三」と。やっぱりこれは非常に重要視していらっしゃるようですね。分量も多く説いていらっしゃいます。

 

金光:  それでその後に続きますのが、今度は口に関係する「不妄語」「不綺語」「不悪口」「不両舌」とありますが、その「不妄語」というのは、どういうことなんでございましょうか。

 

金岡:  これは平たく言えば、嘘。「妄り」という字を入れているわけですから、真実に反するわけですね。ですから「不妄語」のことをごく簡単に説明すると「不実語」という言葉を慈雲尊者はお使いになっているわけで、実でないこと、真実でないこと、こういうわけです。

 

金光:  慈雲尊者のご説明というのは、非常に広いところから説明されていらっしゃるようで、先生に選んで頂いた「不妄語」の説明の言葉を読まして頂きますと、

 

身、口、意業(いごう)偏(へん)虚空トアル。・・・

正意(しょうい)ハカウジャ。自性法界ハ

元来頑空(がんくう)無相デハナイ。身業ガ

直ニ法性ノアラハレタ姿ジャ。

法性ガ縁起スレバ等虚空界

微妙ニ色身トナリ来ルゾ。

口業ガ直ニ法性ノアラハレタ

姿ジャ。

 

「正意(しょうい)」の説明のところで、随分広いところからのご説明でございますね。

 

金岡:  こらは慈雲尊者の『十善法語』の書物の中でも、哲学的と言いましょうか、基礎的に非常に大事な場所で、人間の行動の仕方だけを形で守れば十善戒になるんじゃないというところだろうと思います。大事なところは、やっぱり一番最初にある、身体でやる三つの善いこと、口でやる四つの善いこと、それから心で行う三つの善いこと、これが合わせて十善戒ですけれども、これはこの地球上というような言い方は、昔の方だからしませんけれども、「大空と同じだ」と。「大空に遍(あまね)くものだ」と。人間のこの地上の世界なんて狭いものじゃないんで、「偏虚空だ」と。「宇宙全体である」ということですね。ですから最初にお話も出たように、このお言葉一つ見てもわかるように、慈雲尊者は真言宗であるとか、あるいは仏教であるとか、東洋人であるとか、そういう意識は全然なくて、人間が人間である以上、大空、大地と同じように守らなくちゃならないことは、これが「身・口・意」の十善業であると。これは、上にあるのが天であって、下にあるのが地であるのと同じよ。こういう「天地乾坤(てんちけんごん)」という言い方は、仏教よりも、むしろ儒教がよくされるところですから、今の言葉なんかも、さっきお話に出たように、慈雲尊者の儒教的な素養が出ているのかも知れませんですね。

 

金光:  やっぱり自分の人間の身体の行いも、口で喋る行いも、全部法性の現れだと。

 

金岡:  その「法性」というのが、宇宙のエッセンスということですからね。だからそれからずっと出てくるのがいいんで、自分がよく思われたいとか、偉くなりたいとかいうのは、法性の現れではないんですね。「これを言ったら嘘になる」「これを言ったら誇張になる」というような言い方は、慈雲尊者はしてないですね。

 

金光:  それと同じようなところが、次の「不綺語(ふきご)」という。綺は綺麗の綺、飾るということですね。

 

金岡:  「妄語」も同じく真実ではないという点では、相通ずるものがあると思いますけれども、いろんな上手いご説明の仕方がございますけれども、一番大事なことは、口偏でなくて、糸偏でございましょう。

 

金光:  これやっぱりなかなか中国文化としての面白さだと思いますけれども、やっぱり飾るというのは、人間は他の動物と違って、自分の毛髪で、自分を保護したり、飾ったりすることできませんから、飾る時には必ず衣服を着ける。この衣服というのが、プラス(+)にも、マイナス(-)にもなるわけで、我々はちゃんとしたところに伺う時は―今日は私は僧服を着けないでまいりましたけども―洋服だったらば、どういう方が見ても失礼に当たらないようにというのでネクタイをするというのが当然ですね。これは当たり前の話で、この頃は大学なんかでもジャンパー着たり、ネクタイをしない先生が増えてしょうがないですよ。昔大学なんかいうのは、みんな紋付き袴、フロートコートだったわけでしょう。そこまでとは言わないけれども、ネクタイするというのが、そんなに億劫なことか、嫌なことか、私はそっちの方が不思議です。ですからそれがやらないのが、やっぱりこれも不綺語です。

 

金光:  そうしますと、「不綺語」というのは、口だけでなくて、身体も、喋るのも、重い意味もあるわけですね。

 

金岡:  そうです。だから「身の綺・口の綺・意の綺」という三つとも、慈雲尊者はお使いになっていた。

 

金光:  じゃ、言葉で代表させているだけであって、実際は身口意の三つの行い、全部に同じことが言えるわけですね。

 

金岡:  そういうことで、飾りがあるというのが、これが「綺」でございます。ですから「綺」は、実に起こし易いわけで、女の方でも少しは綺麗に見られたいという時に、ムダなおしゃれもするわけですね。それだけども、男の人も慈雲尊者はほとんど女性の例なんかあげないです。男の方が本式にお坊さんの修行をしていないのに、衣だけまとって大勢の者を騙すとか、それからこれは良いと言って絵描きさんが、この頃言いませんけど、「何々法印」とか、「何々法眼」とか言いますでしょう。これはちょっと了解がついていることだからいい。なかなかそういうふうな喧しいんですけども、厳密におっしゃっております。そういう実際の世間の例が適切なんですね。ですから今こういう世の中に、慈雲尊者みたいな方がお出でになって、テレビやラジオでお話してくださったらば、今の状況からもっとも適切な例をお取りになって、話してくださるんじゃないかと思ったことがございます。

 

金光:  そうしますと、今の「不綺語」の場合も、言葉に関することだけじゃなくて、身体に関すること、思いに関することもあるのと同じように、その次にあります「不悪口(ふあっく)」の場合も、そういうことがあるわけですね。やっぱり口で喋るということは行動ですから、身業でも、身体の行いであるわけですね。

 

金岡:  この「不悪口」も非常に大きな問題になってくるのは、いわゆる真実語に反するのは、さっき「不妄語」だと申しましたね。ですけども、「不悪口」と「不妄語」の関係はどういうことになるのかというのも問題にされておられるわけです。

 

金光:  ここで選んで頂いた言葉を紹介しますと、「不悪口」の場合は、

 

其ノ戒相(かいそう)ヲ言ハバ、

愚痴ナル者ヲ愚者ト云ヒ、

モシハ上等ノ人ヲ中等ニ言ヒ下シ、

中等ヲ下等ニ言ヒ下シ

ヒキコナサレヌ人ヲ引キコナシテ云フ類ハ、

此ノ戒ノ増上ノ違反ジャ。

 

これは、「ヒキコナサレヌ人」というのは、どういう?大阪の言い方かも知れませんね。

 

金岡:  あるいは、江戸までで滅んだ言葉か、地域社会時代だからよくわかりませんけれども、所どころにこういう言い方が出ていて、これは方言や時代の言葉を研究する方にはいい資料になると思いますけども、我々は内容だけで問題にしますと、「引き言い下し」という言葉は、「かっけなす」―けなす、ということですね。「ひきこなす」も「ひきさげてけなす」ということですから、同じでございます。この言いたいことのポイントは、「愚痴なる者を愚者と言い」というのは、これはさっき申し上げました、「不妄語」が、真実語であるという点からすれば、「愚痴」というのは、平たく言えば、「馬鹿」ですから、「馬鹿の人のことを、馬鹿と言って、なんで悪い」とよく言いますけれども、「俺は、利口の人を馬鹿と言ったんだったらば、嘘だろうけれども、正真正銘の馬鹿ということでしょう。それもやっぱりそう簡単にOKということにはいかない。何故かというと、言われた人が非常に傷つくわけですね。そういう傷つく言葉のことを、仏教では、慈雲尊者は他の場所でおっしゃっていますけど「粗悪者」。「粗悪」というのは、缶詰なんかの粗悪製品という、あの粗悪でございます。その「粗悪語」という言葉を使ってはいけない。その「粗悪語」の反対は、「柔軟語(じゅうなんご)」。だから柔軟語は、これらの十の中には出てきませんけども、十の言葉の基礎にあるわけですから、それを慈悲心ですからね。その柔軟語、慈悲心を具えたならば、猿に似ている人を、「お前、猿に似ている、と言って、何が悪い」という理屈ではすまされないわけですね。ですから、そこのところに「不悪口」と出てきて、さっき読んで頂いたように、そういうものをひき下して、かっけなしていうのはいけない。それから「上等の人を中等と言い下し」これはまた逆に真実に反しているわけですね。上等だったのにも拘わらず、中等と言うわけで、この原動力になっているのは嫉妬心でございましょう。だから関係のない人のことは、公平に誉めるけれども、仲間のことだというと、ちょっと貶してみたくなるというのがこれですね。それからその次も同じで、「中等を下等に言い下し」というのも同じことで、これはやっぱりさっきとは違う方法ですけれども、悪口の中に妄語が含まれている。だから悪口は必ずと言っていいほど、妄語に組み合わされて、 

 

金光:  その辺は全部共通しているということでございますね。

 

金岡:  ですから誰でも分かり易く、こういうふうに詳しく分けただけであって、もう悪口と妄語とは兄弟関係にある。 

 

金光:  「両舌」というのは、あちらの人とこちらの人に言うことが違うということですね。

 

金岡:  両方ごく普通のことでいう「二枚舌」というわけですから、これも勿論「不両舌」というのは、一番最初の「不妄語」のごく単純なというか、ごく一般的な実例

 

金光:  その辺はお互いに関連しながら、しかもそれぞれの特徴を取ってこういうふうに四つを出されたわけですね。

 

金岡:  そうなんですね。

 

金光:  それじゃ後、「意業」思いの心の方の三つの戒めがあるわけですが、この「不貧欲」これはよく言いますね。「貧欲、瞋恚、愚痴」というのが仏教の三毒だと言われますが、この「不貧欲」について、どういうふうにおっしゃっていらっしゃるのか。その選んで頂いたご説明をちょっと読まして頂きますと、

 

仏説ニ結使(けっし)ヲ懐抱(かいほう)セバ

彼(か)ノ袈裟ニ応ゼズトアル。

結使トハ貧欲・瞋恚ノコトジャ。

此ノ貧欲等ガ自心ヲ繋縛(けばく)シ、

身心(しんしん)ヲ役使(えきし)スルニ由(よ)ッテ、

結使ト名ヅクルノジャ。

 

「結使(けっし)」というのは、結び使うというのは、

 

金岡:  これは一番一般に使う言葉で言えば、「煩悩」でございますね。しかし「煩悩」というのは、非常に全体的な漠然とした言い方になって、いろんなものに心が惑い、それから悩むという、いわば結果的な言葉でございましょう。しかしこの結使(けっし)というのは、自由自在に働く筈の心が結ばれて、そして自分の心でありながら、心ここにあらず、という言葉の通りですね、何ものかに使役される。

 

金光:  なんかこれしたいと思ったら、これしか頭になくなってというのが結使(けっし)ということですね。

 

金岡:  そうです。これもやっぱり慈雲尊者らしい学問上の根拠で、この場合は「煩悩」というよりも、この「結使(けっし)」の方がわかりいいというんで、お使いになったんだろうと思いますけど。

 

金光:  真ん中辺にあります、この「貧欲」「瞋恚」というのは、あれがほしい、これがほしいと思う、その欲しい欲しいでいっぱいになったり、腹が立って腹が立って彼奴さえいなければとか、そういうことをいうわけですね。

 

金岡:  そうです。

 

金光:  それが「自心」自分の心を繋縛(けばく)、要するに結びつける、縛り付けてしまう。それによって自分の「身心」心と身体が使われてしまう。使役されるということですね、「役使」というのは。「結使」とは、しかし上手なことを言ったものですね。

 

金岡:  でもその通りで、「結使」が原因で、「役使」が結果でしょうね。自分の心の中に固まっちゃってできているものが「結使」であって、それから出てくる実際的な害毒が「役使」ということになるんじゃないでしょうか。あまり良い譬えじゃありませんけれども、例えばお腹の具合が悪くて、なかなかお通じがないと。「宿便」という言葉がありますが、「「結使」の方は、その宿便みたいなものであって、それから出てくる実際の消化不良というんでしょうかね、それがその結果だということで、やっぱり仏教ですから、あくまでも心の中に原因があると。それが原因となって、いろいろな都合が出てくるということを、今のような表現でおっしゃっているんだろうと思います。

 

金光:  ただ現実には、自分がそういう「結使」結ばれて繋がれている場合には、自分でなかなか気が付きませんですね。

 

金岡:  そうですね。ですからそこらのところが、今日のお言葉の中から十分出ませんでしたけど、今の見て頂いた言葉でも手掛かりは出ているわけです。「貧欲」と「瞋恚」というのが出ておりますね。これが「結使」の大きな内容というか、材料であって、赤ん坊には「結使」があるか、ないかも、大きな問題ですけど、まあ少ないだろうと思うんですね。だんだん歳をとるに従って、いろんな「結使」ができてきて、その「結使」というものによって、ついには身を滅ぼして、老年になってもかえって煩悩が増えると。実際にいるわけですからね。それは今の場合、「貧欲」と「瞋恚」というものが、どんどん「結使」を大きくして、「貧欲」というのは、申し上げるまでもなく、分を越えて、何でも自分のものにしたいという貪りでございましょう。この「貪り」というのは、「有形(うぎょう)、無形(むぎょう)」有形(ゆうけい)、無形(むけい)のものをすべていうわけで、仏教の、もっと一般的な欲望論で言えば、形で見える財欲がありますし、それから名誉というような名利の欲があるし、色欲―性の欲もあれば、食欲も、いろんな欲望がありますけども、この欲望を絶たない限りは、これは決して年齢がちょうど太陽のように氷を融かして働きがないわけですから、どんどん固くなる、大きくなる、ということでしょう。それからもう一つの「瞋恚」というのも、あまり今では「貧欲」ほどは言われませんけど、「瞋恚」もなかなか始末の悪いもので、特に老年になっても解決できないというのは、この「貧欲」よりも「瞋恚」の方ではないでしょかね。

 

金光:  その「貧欲」と「瞋恚」についての説明も少しありますので、具体的な「貧欲」欲しがるなと言っても、すべては欲しがらないというわけにはいかないですが、その点について選んで頂いた言葉がございますが、まず「不貧欲」の方では、

 

天ノ与フル所ハ万乗(ばんじょう)モ辞セズ。

天ノ惜シム所ハ一木一草(いちもくいっそう)モ取ラズ。

 

「万乗(ばんじょう)」というのは何ですか。

 

金岡:  「万乗(ばんじょう)」というのは、「万」は譬えですけれども、あらゆるというか、たくさんの、ということですね。「乗」は、この場合は乗り物の意味、そのままでいいんで、大乗仏教の乗は、教えと言うんじゃなくて、一万の乗り物、一万の荷車に乗せるほどのたくさんの財産であっても、天が与えてくれた場合には、有り難く頂戴していい、というわけですね。ですからこれを経済学の方が、どういうふうに解釈なさるかわかりませんけれども、身に具わったものであったらば、百万長者でも億万長者でも一つもかまわないわけで、百万長者はけしからんという考え方もあるでしょうけれども、慈雲尊者はそういうお考えはもっていませんね。それから「天の惜しむ所は一木一草も取らず」この場合の「惜しむ」という表現はちょっと適当かどうか、

 

金光:  与えないという、

 

金岡:  そういうことなんでしょうね。天の与えてくれたものでないんであったならば、一木一草をとっても、それはいわゆるさっき言った「不与取」になるわけで、これはけしからんことである、ということでないでしょうかね。

 

金光:  でもその次に、「瞋恚(しんに)(いかり)」についてのご説明がありますが、それを紹介させて頂きますと

 

虚空ニ対シテ瞋恚ヲ生ズルカ。

此ノ虚空ハ元来天地万物ヲ容レテ、

我ガ瞋恚ニ相関(あず)カラヌ。

此ノ瞋恚労(ろう)シテ功ナキジャ。

 

それはそうですね。虚空に対して腹を立てるか、天地宇宙に対して腹を立てるか、まあ朝の日の出があって、太陽が出てきて、この野郎ということはないわけですから。

 

金岡:  よく先ほど来からずっと慈雲尊者の「天地虚空」という例を挙げていらっしゃいますけど、こういう終わりに近づいたところで、「虚空」をお挙げになったのは、これはまた儒教でもそうでしょうけど、仏教でもそうでございますね。「天地と大地」ということを、「天空と大地」ということを言いますけど、「天空」はここへ出てきた「虚空」でございまして、この虚空を本体にする仏として虚空蔵菩薩というのがあります。大地の仏にしたのが、言うまでもなく地蔵さんですね。それで地蔵菩薩というのは、我々今日の仏教徒が、七七日の供養をやる場合にも、地蔵さんは一番先でございましょう。それで虚空蔵菩薩というのは、一番最後の三十三回忌の仏ということになって、勿論五十回忌、百回忌をおやりになる方もありますけれども、普通三十三回忌が終わると、それをもってその人の一代の供養を先ず終わった、ということになって、私が以前におりました八王子よりさらに向こうに高雄という町がございますけど、あそこら辺では三十三回忌の時には、普通のお塔婆(とうば)を立てませんで、杉塔婆と申しまして、二寸ぐらいの杉の若木を切ってきて、それで間の枝は全部おろして、上に青い房を残して、今度は幹を削るわけですね。そうすると白い肌が出ますけど、そこにお戒名を書いて、杉塔婆と言ってあげるのが、三十三回忌のお塔婆で、これが一応一代回向の最後ということになって、それから後は先祖代々ということでいいんだというようなやり方が一般的でございましたけれども、やっぱり今のお言葉でいうふうに、虚空に還るということなんでしょうね。ですからそれは何についても当て嵌まる仏教の教えということで、さっきおっしゃった通り、まったくその通りで虚空に対して大空に腹を立てる奴はないわけですからね。

 

金光:  それも虚空に代表され、言葉に代表されているわけですけれども、いわば天地の道理と言いますか、それに天地の道理のままに従っていると腹も立たなくなるということですね。

 

金岡:  そうですね。その通りで二行目に、「虚空は元来天地万物を容れて」と書いてあるように、虚空はいわゆるキャパシティーと言いますかね、今の言葉で言えば、包容性というか、包容性が無限であるものを虚空と言ったんで、青いとかどうだとかということではなくて、天地万物を容れ、この包容力というものを前にすれば、自分一個の瞋恚なんか如何につまらないものであるか、くだらないものであるか。それでそのことがわかれば自分があの大きな青空の下で「瞋恚労して功なきじゃ」ということに思いつく筈だということだろうと思いますね。

 

金光:  それで今、「不貧欲」と「不瞋恚」というご説明を頂いたいんですが、この「不邪見」というのが、最後にですね、「不邪見」という言葉がありますが、この全部を引っくるめる、纏める言葉でもあるような気がするんですが。

 

金岡:  そうですね。慈雲尊者ご自身も、この『十善法語』というと、如何にも十巻で纏めそうに思いますけど、十二巻なんですね。それでそのうち多く分量を使っているのが、最後の「不邪見」はもっとも分量が多い。で、すべてはこの「不邪見」が、身体にひらくと三つになって、殺生をやる、偸盗をやる、邪淫をやる。今度は口で開くと、人間は言葉の動物ですから、妄語する、綺語する、悪口をする、両舌をする。そういう行動に出ないで、心の中においても今お話が済んだ場合、貪りの心というのは十分に働く。それからそお貪りは、言うなれば積極的な欲望だと思うんですね。あれがほしい、これが欲しい。何になりたい、かんになりたいですから。で、この「不瞋恚」は、それが上手くいかなかった場合のネガティブないかりで、あの野郎があんな役を持ててというような、これはそこら中にあるわけですけど、この両方なんかは、現在日本の代表的な心と言ってもいいくらい日本中に充ち満ちている。それは何故かというと言うんで、「不邪見」が出てくるわけですね。

 

金光:  その「不邪見」について説明して頂いている言葉をちょっと読まして頂きますと、

 

ココハ目デミルデハナイ。

心ニ見定メル処アルコトジャ。

此ノ見処(みどころ)ガヨコ道ヘ

往(ゆ)キタルヲ邪見ト云フ。

此ノ邪見ノ怖ルベキヲ知リテ、

正知見(しょうちけん)ニ随順スルヲ不邪見ト云フ。

 

ということですね。

 

金岡:  一番のポイントは、「目で見るではない。心に見定める」というところがポイントだろうと思いますね。この「目で見る」というのは、肉眼で見るという生理的な意味だけでおっしゃっているんじゃなくて、やっぱり予見というか、偏見というか、それも問題にしているんだろうと思います。

 

金光:  今の仏教で常に戒められることですね。

 

金岡:  そうですね。ですから今の人に一番分かり易く、この慈雲尊者がここにおっしゃっている「目」という言葉を置き換えれば、「個人差」と言いますかね、その個人差に固執すれば偏見ということになるわけですけど、なかなか個人差というのが、実際にはどの位の差であるか、測定することはできませんし、「俺は確かに見た」と言われると、それを否定する材料は他人にはないわけですから、弱ってしまうわけですけれども、慈雲尊者は科学の人とは違う立場ですけれども、人間のもっている約束というのをやっぱり予想して、今のような正見と邪見ということをおっしゃっているだろうと思いますね。「邪見」という言葉は非常に強い言葉ですけれども、これをお使いになっていらっしゃるわけですね。

 

金光:  やっぱり日常生活で自分には貧欲がないつもりでいても、とにかく何を考えるにしても、欲しいか欲しくないか、常に貧欲に左右されて見ているというのが現実のようでございますし、そのことに気が付かないと、正しくみる正見(しょうけん)もできないことでしょうし、自分が邪見であることにも気が付かない。だから俗にいう邪見というのと、字も違いますけども、邪(よこしま)な見方をしているということが、気が付くか気が付かないかという点で、もの凄く大きな差が出てくるわけでございますね。

 

金岡:  そうですね。この「正見」の定義のところにですね、「目」の次に「心」と書いてあるのが非常に大事なことで、我々は正見も邪見も全部目の作用だと思いますね。ですから例えば眼のご不自由な方だったらば、心は見ることはできないのか、といいますけれども、塙保己一(はなわほきいち)(江戸時代の国学者:1746-1821)とか、あるいはヘレン・ケラー(アメリカ合衆国の教育家・社会福祉事業家。自らも重い障害を背負いながらも、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くした:1880-1968)とか、ああいう方の例を出すまでもなく、ちゃんとものを見てお出でになりますね。しかし普通のこういう生理的な眼に支障はなくても、心に偏見があれば、我々決して正しく見ることはできない。これは日常の会社生活でも、「よくあの人にこの頃俺に変だ」というようなことを言う人がありますけれども、それはよく尋ねてみると一つも変なことはなくて、自分の方がその人に予見偏見をもっていたために上手くなかったということで、慈雲尊者なんかも昔の中国の王敦(おうとん)という人の例なんかを出して、偏見をもっていたのが、偏見を伴う言葉になって、ちょっと悪いことですけれども、人の悪口を言ったために、ついには身を滅ぼしたという実例もあります。ですから慈雲尊者のおっしゃっていることを、ずっと今までみてきたわけですけれども、最後の「邪見」なんていうのも、ここでは邪な見方という、よく知られた「邪見」という言葉をお使いになっていますけども、これは仏教を勉強した方だったら、この「邪見」という言葉の代わりに、「愚痴」という言葉を使う。むしろ「愚痴」の方が一般化しているかも知れませんですね。

 

金光:  今お話を伺っていますと、現代という時代は、非常に科学的な面が発達して、宇宙のこともよくわかっているようですけれども、どうも意外に人間中心の見方がもの凄く地球とか宇宙に対しても、人間中心の考え方が強くて、毎日の生活の中では、むしろ慈雲さんの時代よりも、なんか邪見が多くなっているんじゃないか、というような気がしますね。

 

金岡:  そうだろうと思います。

 

金光:  人間至上主義みたいな考えで、地球のものは何でも人間が利用すればいいみたいな、そういう傾向が非常に強いような気がするんですが、この「十善」のお話をずっと伺っていると、常に天地と一緒に、ということで、

 

金岡:  「天地の中に自分が生かされている」という感じですね。ですから一番最初におっしゃったように、慈雲さんの宗派的な立場というのは、むしろそれを超えて、真言の立場に立ちながら、むしろあらゆる仏教の教えの上に、自分を位置付けようとしていらっしゃる、という言葉がでましたけども、ほんとにそうなんですね。ですから慈雲さんは、決して慈雲宗というのをお作りになっていませんね。ご自分の著作も、こういう『十善法語』というような、まあ非常にわかりいい、実行し易いものをおっしゃって、先ず足下から人間を善くしていこうとした。そういう点では、私は慈雲尊者の後を継いだ明治になってから釈雲照(しゃくうんしょう)(幕末から明治期にかけての真言宗の僧:1827-1909)なんて目白僧園を創られたああいう方がおられるわけで、どうもそういう幕末から明治にかけての仏教の非常に大きな光というものが、慈雲尊者の中にあったのか、今ちょっとどういう形で活きているかわからないのが、私、残念でございます。

 

金光:  むしろ私たち、学校なんかで習った時には、江戸時代は仏教が非常に衰えてダメな時代だというふうに聞いていたんですが、こういう慈雲さんの残された言葉なんかを見ますと、本来の仏教の大事なところをちゃんと掴まえて、しかも分かり易く説いていらっしゃる。決して衰えた仏教ということじゃないような気がしますが。

 

金岡:  私はこの頃そればっかり考えていますね。変なグラフがありまして、奈良時代からずっと平安時代を経て、ピークに達したのが鎌倉、あと室町、江戸とずっと下っていって、江戸から明治にかけてはもう姿が見えなくなった。これを一番権威のある歴史畑の先生(辻善之助)が、東京大学史料編纂所というようなところを地盤にして、十巻の書物に纏めてお書きになったのが、金科玉条になっちゃった。それに基づいて戦前・戦後の歴史の教科書ができたと思うんですね。ですから高等学校の先生、中学校の先生は、ほとんど全員が鎌倉仏教こそ日本の仏教と思って、前も後もまだそこまでいかないか、あるいはもう衰えたと思っていますけど、とんでもない話で、明治の仏教になるまでの幕末の仏教なんか絶対に今日の慈雲尊者を初め再評価すべき人が大勢おられます。

 

金光:  例えば幕末に近い頃だと良寛さんなんかもいらっしゃいますね。

 

金岡:  今私があげたある先生の仏教史は、『日本仏教史』と題して、十巻の書物ですよ。何千ページでしょう。その十巻の書物に、良寛の「良」の字も出ていないというのは公平じゃないでしょう。四ページや五ページの論文で、良寛が出なくていいですけど、それはやっぱり学問的な形を変えた偏見ですね。それでさらにそれを幕府をそういうふうに見ていた薩長が、新しい政治を作りましたから、もう薩長の人たちが江戸の仏教の再評価しないのは当然で、今の日本を覆っている鎌倉仏教万能主義は、「薩長的仏教観」と、私は言ってもいいと思うんです。

 

金光:  そういう意味では、今の「不邪見」が大事であると。その辺のところを踏まえたうえで、改めて慈雲さんのおっしゃった善と悪というようなことを現代の生活でもう一回考えてみなければいけない時代だと思いますね。どうも有り難うございました。

 

     これは、平成六年六月五日に、NHK教育テレビの

     「こころの時代」で放映されたものである